春季永代経法要

平成23年5月25日(水)~26日(木)
      昼 1時半より 
            講師 桑門 真昭 師(大手町常念寺)

まこと会便りは右のメニューから選択・クリックしてください。

TEST

test

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

マジック エッグ

 

 実は一昨年の話なのですが、PTAの慰労会でMagic Eggなるものをいただきました。それを去年の夏に栽培してみました。

説明書には花も咲かないし、種もできないみたいなことが書いてあったのですが、水をやるとみるみるうちに大きくなってきました。そこで、植木鉢に植え替えかえたのですが、それでもぐんぐん伸びていくので、とうとう庭に植えてみました。

成長はとどまることを知らず、2階を跳び越し3階まで達しました。そして、花は咲かないかと思っていたのですが、なんと可憐な花を咲かせました。

 さらに、なんと”なた”のようなさやが・・・なたまめの一種でしょうか?結構楽しめました。

ちなみに、第一段階の双葉には”Thank you”と刻印?されていました。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

宮崎県知事選挙

 宮崎県の県知事に高校の同級生が当選した。去年の広島県知事に続き母校の同年代の知事の誕生である。圧倒的に有利な選挙だったから、報道も関心はないのだろうけど、東国原知事のときとえらい違いである。しかも、地元の中国新聞でさえ共同通信の記事の転載である。
 いろいろと問題も残され大変な舵取りではあるけど、十分県民の期待に応えてくれる人材だと思う。もう少し広島からも応援してあげられたらいいのだけど。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

高免信喜ジャパンツアー


 法座の次の日、ニューヨークを拠点とするジャズギタリスト、高免信喜さんのコンサートを本堂で行いました。初めての試みなので、何もかも手探り状態。聴きに来てくれる人はいるのだろうか、という心配もあった中、松本印刷さんのチラシの効果か、予想を上回る反響で、チケットは完売!(水増し刷り・・・みんなが来たら困るかも)そして、当日、光圓寺は満堂!ご法座の時もこれぐらい来てくれたらいいのにね(^^);
 昼過ぎに来た高免トリオの皆さんは、まず入念な音響チェック。初めての場所なので戸惑いもあったようですが、最終的にはバッチリです!と。リハーサルも終え、あとは観客の皆さんを待つばかり。満員御礼状態に高免くんもにんまり。気合いが入った模様。
 あとは高免トリオの演奏に聴き入る皆さんを見て私がにんまり。高免くんのお父さんが、「ドラムの吉川くん、最高に乗ってますよ」と耳打ちしてくれました。観客の皆さんは演奏に酔いしれ、高免トリオの皆さんもこの空間を気に入ってくれたようです。後日、月忌の時のヒアリングでも大変好評で、ギターの高免くんはもちろん、ベースのレニスさん、ドラムの吉川さん、それぞれの演奏に感動されたようです。
このライブの模様は、11/5のケーブルテレビで放映されました。
P.S.高免くんとの出会いは、2006年9月。9.11の事業でニューヨークを訪れた際、NY広島県人会の納涼祭でギターの生演奏を聴いたのが始まりでした。ニューヨークメッツの試合を途中で切り上げて、納涼祭に行っていなければ出会ってないかもしれない・・・不思議なご縁です。このブログ、「サイト内検索」で”高免”と検索すると関連記事が出てきます。 

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

報恩講


 10月19日報恩講、20日秋季永代経法要として法座を勤めさせて頂きました。
ご講師は松林行圓師。おときのあとの昼席では眠気を催さないようにと、同行と同じ目線でお話しされました。私たちはだんだん絆を断ち、お金至上の個人中心主義になっていますが、それでいいのでしょうか。フーテンの寅さんは勝手気ままに生きているが、結局家に戻ってくる。そこには家族の絆があり、それをみんなが感じている。寅さんの最期を描いたとも言える「おとうと」では、そんな絆を断ち切ったように見えても切れない絆がしっかりとある。肉親の最期を受け入れていく中で改めてその絆というものに気づかされる。
 声の仏さま 名声聞十方、 南無阿弥陀仏 それこそが仏さまそのものだったと気づかせて頂くことが大切。人生の最期に人間に生まれてよかった、と思える人になれたらすばらしい。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

敦煌

yurinkutsu001s.jpg
 今、中国から尖閣諸島の問題で理不尽な要求を突きつけられている状態ですが、6月14日から19日まで広陵西組の研修旅行で中国の敦煌に行って参りました。
 ルートとしては、広島->上海->蘭州->敦煌->西安->上海->広島でメインは敦煌です。最初の蘭州の郊外には柄霊寺石窟もあるということでしたが、アクセスに時間がかかりすぎ、とても半日では行けないということで、白塔山公園、甘粛省博物館というところを見て回りました。ここは牛肉麺が有名ということで早速試してみましたが、あっさりしていて美味しいです。
 二日目は敦煌に飛び、鳩摩羅什ゆかりの白馬寺、鳴沙山観光。鳴沙山では、砂山をそりで滑るアトラクションにもトライしました。トロ箱に載って滑るだけなのですが、結構楽しめました。上級者コースみたいなのもあって、結構スピードも出ます。三日目は莫高窟、陽関、玉門関へ。莫高窟は圧倒されました。15年前に雲崗石窟に行ったときは、ただただ大きいと感じただけですが、ここでは色彩も繊細でそれぞれの描画が美しい。40℃近い玉門関はとにかく暑かった印象しか・・・
 四日目は、ひたすらバスに乗り続け、莫高窟の姉妹窟、楡林窟へ。これが、上の写真です。谷間の壁面に穴が掘られており、何ともいえない雰囲気の所にありました。で、ここでの仏さまは莫高窟よりも上品。繊細な感じがしました。時間がなかったので十分見ることができなかったのが残念です。この後、昼食に立ち寄った町の食堂。これが、結構いける味でした。ジャガイモの千切り炒めなどなど。
 五、六日目は西安観光。善導大師ゆかりの香積寺、鳩摩羅什ゆかりの草堂寺と巡り、兵馬俑へと。ここもなかなか見応えのあるところでした。
 15年前に五台山に来たときは、人民の足は自転車でした。それが、ほとんど車に代わり、電気バイクも走ってます。交通量がすごいので、横断歩道を渡ろうにも走って渡らないと難しい。発展の裏には弱者切り捨てっていうことが頭をよぎりました。また、いろいろな文化、技術が発展しても、それがうまく継承されていない。それが今日の中国の姿なんだな、と感じました。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

お盆の灯ろうについて

TORO2010.jpg
 ようやく暑さも和らぎ、お彼岸が近づいて参りました。そんな時期に、盆灯ろうの話題もなんなんですが、10月にケンミンショウという番組で扱われるみたいなので少し触れてみます。
 盆灯ろうのいわれについては諸説(紙屋さんの娘さんが亡くなって、悲しまれた親御さんが供えた・・・元は紀州の風習で浅野の殿さんと一緒に広島に伝わった等々)あって、どれが正しいのか定かではありませんが、江戸時代を起点としておよそ200年以上は続いている風習であることには違いありません。お墓を彩る荘厳としてきれいなことから、この地に広まり夏の風物詩となったことでしょう。それでも、私が小学生のころには盆灯ろうの撤去作業を手伝っていましたから、昭和四十年台にはそんなに数はなかったように思います。多くても一つのお墓に3,4本程度でしょう。そうでないと家内作業では手に負えませんから。
 しかし、オイルショック後景気が良くなってくると、限られた地域だけでなく広島市周辺にも広がり、しかも、一つの墓に何本も立つようになりました。そうなってくると荘厳と言うよりは”確かに参りました”という証拠の意が強くなってきます。同時に灯ろうが通路を封鎖して邪魔である、何本も立てるのでもう少し安価にはならないのか等の不満も生じてきます。また、墓地管理側としても後始末が大変なので、灯ろうを邪魔者扱いしだします。そこで、火災の恐れがあり危険ということを前面に出して、灯ろう廃止という墓地も出てきました。
 ここで、困るのがお墓参りをしましたという証です。今までは灯ろうがその役目を果たしてきたわけですが、それがないと疎かにしたような気がするのでしょう。そこにつけ込んだのが、お名号が書かれた木札です。
kifuda2010.jpg
 これは、他宗で用いられる卒塔婆をヒントにしたと想像するのに難くありません。ミニチュアの塔婆です。とするならば、それはお墓の荘厳としてのお供えではなく、追善供養のための施しと理解することもできます。阿弥陀様の本願力によって浄土に参られ、仏となられた方に対して、また迷いの世界に引き戻し、供養する?という不思議な解釈が生じてきます。しかも、要であるお名号、南無阿弥陀仏を粗末にすることにもつながります。お墓参りというのは亡き方を縁として、自分を見つめ直させていただく機会でもあろうかと思います。忙しい日常を離れて、今ここにある私を感じる、そこには多くの縁があったことに気づきます。
 最近はエコということにもこじつけられて灯ろうは苦戦しています。新聞でも灯ろうは衰退するという前提で記事を書かれたりします。しかしながら、うちではお墓の荘厳、お供えとして灯ろうは良しとしますが、木札はだめです。といっても、残念ながら排除することも感情論があって難しいのが現状です。
 うちでは灯ろうの後始末は門前の業者さんがして下さいます。そのためスーパーで買うよりも高価です。そこのところが理解されずコスト至上主義になっていくと残念ながらうちからも灯ろうが消えていくことになるかもしれません。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

丹那での説教 その3

 ずいぶん時が経過してしまったので、いまさらという感じなのですが、続けます。
 私たちを取り巻くこの世界というのは、決して目に見えるもの、理解できるもので閉じているものではなく、時間、空間を超えたものを認めずにはいられない。
 そこに、いつの世であっても、どこにいようとも、誰であっても必ず救うという如来様の働きが届いている。例外なき救い、それこそ完備な救いである。その如来様の働きがあって、私たちは必ず救われるということに気づいたならば、その包み込まれているという安心感の上で私たちは冷静に物事をとらえることができる。余計なことを心配せずに自己を主張しすぎることもなく、少し客観化した立場で自己を見つめることができるし、社会へのアクションもとることができるのではないだろうか。
 人間というのは目標を定めてそれに対して努力するということは容易くできるが、必ず救われるという答えが既にあった時に私たちは怠惰にならずにどう報いていくか。そこが私たちが絶えず問うていかなければいけないことである。ありがたいのう、と思って過ごせるか、不平をたらたらいいつつも。
 腹の立つときや ぶつぶつ申せ
 ぶつもぶつぶつ なむあみだぶつ (浅原才一)
 ちっぽけな世界観の中で腹を立てる私が、時空を超えた大きな世界観の中で照らされていることに気づいたとき、安堵しありがたいと感ずる心が生まれてくる。切羽詰った閉塞感から開放され、少し先が見通せるといったら大げさかもしれませんが、ゆったりとした生き方に転じられていくのではないでしょうか。

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

丹那での説教 その2

 一席目での話は念仏云々は科学的に信用できないから、宗教は信ずるに値しないと考えるのは、よくよく考察した上での話だろうか?いや、そうではなくそういうことにした方が自分が納得するから・・・よく理解できないものは信用しない、非科学的ということにすれば、なんとなく理由がつくような・・・そんな考えはよく科学を理解しない、表面的でしか物事を捕らえない人の非科学的な考えではないだろうか、というようなことを話しました。法とか規則というようなものが、自分の了解できる範囲内ですべて閉じているか、というとそうではないでしょう。だから、法律も時代によって変わってきている・・・どこの空間、時間でも普遍に漏れがない世間の法律というものはありえない。やはり、私たちはこの近視眼的な囚われから脱却しないと、どこまでいっても窮してしまう。
   願力無窮にましませば 罪業深重も重からず
   仏智無辺にましまぜば 散乱放逸も捨てられず
私たちはこの本願力にあっていることを理解しようとはせず、通り過ぎようとしている。でも、よくよく考えればそういった大きなものに抱かれている。科学的に捕らえようとすればするほど、背理法によっても否定できず、不可思議なものに抱かれているとういう念を深くせざるにを得ない。
 まず、自分をとりまく環境を客観的に深く洞察することに自分というものに気づいていく。そこに包まれているという安心感を抱くか、疎外感を抱くか、私たちは自分の目の前にあることを限られた時間で答えを出すのではなく、考察していくことが必要ではないだろうか。
 「数学的にありえない」という海外SF小説?にも仏教徒は量子力学的に物事をとらえる。不変なものに固執するのではなく、より科学的(先進的)に昔から物事を見ていたんだ、みたいな件が出てくる。
なるほどな、と思う。日本の中にいると気づかないこと。。。領域を拡張していけば気づくこともある。(つづく)

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ

丹那での説教

 1月19、20日と丹那・最勝寺の御正忌法要のお取次ぎをさせていただきました。
2年前に続き二度目なのですが、構想は前々から頭の中で構築しているものの、もともと話をするのが苦手なので、今回も舌足らずな話となってしまいました。
 話の内容としては以下のようなことをお話しするつもりでした。
 深く考えることを放棄してしまっている(一対一で答えを求める)今の時短の社会において、自分が理解できないものを「非科学的」などと称して遠ざけてしまう傾向があるように思う。しかしながら、数学というのは実数から複素数、、、と概念を拡げていき、その中で法が閉じているかどうかを論じる。電気の世界でも、実数域でなく虚数・・・イマジナリーパートを考察することは必須である。乱暴に言えば、目に見えない領域を論じて初めて、実領域のことがわかる。だから、科学的に言えば、私の了解するところだけを考える、、、自分中心に考えるということは自分というものをしっかりつかむことができず、いつまでたっても不安定な位置にとどまってしまっているのではないだろうか(第一席)
 つづく

カテゴリー: 未分類 | コメントをどうぞ